こんにちは、じぷたです。
今回は吹奏楽コンクールで銅賞を受賞してしまった場合の心の持ちようについてのコラムです。
以前、「金賞」の持つ意味や価値について記事を書きましたが、その続編として、吹奏楽コンクールで銅賞を受賞してしまったらなぜに苦しいと感じるのかについて考えます。
コンクールの結果が銅賞 心が苦しい
※本文中に銅賞に対してきつめの表現があります。気分を害される方もおられるかもしれません。あらかじめご了承願います。
浪人時代に読んだ四コマ漫画を思い出した
昔々、じぷたは大学受験に失敗し、浪人生活を送っておりました。
田舎から都市部へ引っ越し、共同アパートで一人暮らしを始め、自分が今後どうなっていくのか不安な日々を送り始めました。
予備校生活にもなれてきて、自堕落な生活が板についてきた頃、じぷたはスーパーの図書コーナーで長時間の立ち読みをするのが日課となっておりました。
読んでいたのは、ジャンプ、サンデー、マガジン、まんがタイム系、ビックコミック系、モーニング等、できるだけ幅広く、これまで読んだことのない雑誌にも手を出していました。
ある日、いつものように立ち読みしていたところ、モーニングに連載されていた秋月りすさんの『OL進化論』(ひょっとすると『奥様進化論』の間違いだったかもしれません)に次のようなネタがありました。
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受験生である息子とその母の会話
母:もっとしっかり勉強しなさい、受験に失敗しちゃうわよ。
息子:今の受験制度って良くないよね、勉強だけで人を判断するなんてさ。
母:じゃぁ、受験者の個人の全人格を調べた上で合否を決める試験だったら、受けてみたい?
息子:それなら、いいんじゃない。
母:でも、それで落ちたら、もっとショックが大きいくないか・・・。
息子:う~~ん。
作:秋月りす 『OL進化論』(もしくは『奥様進化論』)より
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全人格をもとに判定して、その試験に落ちちゃったら、受験者は全否定されちゃったことになりますものね。
じぷたは、この4コマ漫画をとてもよく覚えています。自分が受験生(しかも受験に失敗して浪人中)だったこともあって、言われたら思い出す程度ではなく、今でもしょっちゅう思いだしています。
※性格や人格は、他人が100%把握できる類のものではない、という面はもちろん前提として理解しています。あくまで、理論上の話です。
この4コマ漫画を読んで以降、(特に人や人の活動に関しては、)すべてを把握して判断することが、かえって失礼になる場合もある、と思うようになりました。
男女の交際なんかもその面が強いかもしれませんね。
かれこれ、20数年前のお話でした。
改めて考える 銅賞とは何だろう?
さて、今年の夏、全日本吹奏楽コンクールのもっとも基礎的な予選(地区大会または県大会)で銅賞をとってしまった皆さん、あの時は、苦しかったですよね。
金賞の価値については、金賞≒ベスト8と考えるのが妥当であると考えていて、このことについては以前記事に書きました。
それでは銀賞と銅賞は、どのように例えるとよいのでしょうか。
1回戦敗退と例えると伝わりやすいのか、それとも1回戦コールド負けと例えると分かりやすいのか・・・。
実際のところは、金賞以外の団体で中間層からも得点が大きく引き離されてしまっている下位層を銅賞としていることが多いようです。
公開された得点表と照らし合わせると分かります。
全日本吹奏楽コンクールの銀賞と銅賞の違いは得点です。採点は減点方式なので、良くない点が多ければ、得点は低くなります。
銀賞と銅賞の違いは良くないところが多かったか、少なかったかの違いです。
しかし多くの中高生は、銅賞受賞は「銅賞としか表現できないダメな演奏をした結果である」ととらえています。
その理由は・・・たぶん比率です。
概ね、金賞:銀賞:銅賞は1:2:1となるように定められていますが、銅賞については、厳密に適用されていないところがポイントです。
銅賞については比率が厳密に適用されていない、突き詰めて言うと、無理に銅賞を生み出さなくてもよい、ということを示しています。
銅賞とは 演奏についてのみの評価 それ以外の意味はない
無理に出さなくてもよいはずの銅賞なのに、なぜ受賞団体が出てしまうのか。
ここから「銅賞としか言いようがない演奏を・・・」という印象が生まれたとじぷたは思います。
銅賞は必ずしも出す必要はない
⇓
にもかかわらず銅賞受賞団体が発生している
⇓
銅賞としか言いようがないくらい酷い演奏をしたに違いない
そして、その印象は、銅賞をとったバンドへ侮蔑の心情を持つことにつながっていきます。
「年に1回の大一番に、銅賞になるくらいダメな演奏をするバンドは、普段の活動もダメなのだろう」と。
銅賞という評価を受けたことで、あなたが苦しい気持ちになっているとしたら・・・。
あなたが苦しいのは、銅賞受賞によって普段の活動までも否定されてしまったような気持ちになったからではないですか?
「吹奏楽コンクールでの演奏」という、活動全体からみれば、ほんの一部分についての評価を受けた。結果としてその部分(演奏)について「銅賞」という評価だった。
これだけなら残念だったかもしれないですが、苦しいとまでは感じないはずです。
でも「普段の活動もダメ(に違いない)と思われている」、と感じることはきっと苦しいです。
演奏のみならず、すべてを否定されてしまったと感じてしまうからです。
本来、銅賞といっても、純粋に演奏の得点が下位だっただけのこと。
まとめ
銅賞の数が規定の割合によらないことが多くあったため、銅賞に対して過度の「ダメ感」が創出され、結果として「銅賞」≒「普段の活動からしてダメなバンド」という空気を多くの人に持たせてしまいました。
しかし、これは大きな間違いです。
銅賞には「演奏が残念だった」ということ以上の意味はありません。
銅賞という結果をもとに普段の活動にダメを出すことは、正当性がありません。
銅賞となって悔しい思いを感じるのは大切ですが、苦しむ必要はありません。
さて、じぷたが伝えたいこと。
銅賞は、部活動全体の一部分である「演奏部分」について審査を受けた結果です。決してあなた方の普段の活動までを否定するものではありません。
受験が「勉強ができるかどうか」を元に人格まで判断しているわけでないことと一緒です。
訳の分からない空気に負けてはいけません。
空気に気力を奪われてはいけません。
必要なのは音楽を愛し、技術を高めることです。
明日のために。
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